『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』をモーっと楽しもう

おかえりなさいませ
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の
徹底解析・完全ネタバレとなっております
鑑賞前のお客様は予備知識記事に移動下さい
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の考察レビューとなっておりネタバレが含まれております。
未鑑賞の方は鑑賞前の予備知識編の記事をご確認の上で再度お越しください
目次
この世界の(さらにもいくつもの)片隅に

引用元:この世界の(さらにいくつもの)片隅に|なぜ犬は尻尾を振るのか。
この世界の片隅に:日本2016年公開 (さらにいくつもの):日本2019年公開 監督:片淵須直 脚本:片淵須直 原作:こうの史代『この世界の片隅に』 製作:真木太郎 製作総指揮:丸山正雄 出演者:のん、細谷佳正、稲葉菜月 尾身美詞、小野大輔、潘めぐみ、花澤香菜 他 音楽:コトリンゴ 主題歌:コトリンゴ『みぎてのうた』 撮影:熊澤祐哉 編集:木村佳史子 制作会社:MAPPA 製作会社:『この世界の片隅に』制作委員会 配給:東京テアトル
クラウドファンディングで2016年にやっと公開ができた作品だったのが結果的には世界29か国で大ヒットとなった『この世界の片隅に』
2019年には約40分の新規場面を追加した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開
今回は長尺版の感想となることは先に述べておきたい。私がこの考察記事を書いているのが2023年8月で長尺版が公開されたのが2019年なので4年の月日が経過している事になります。
ネット上ではオリジナル版と長尺版の違いなどの記事が既に溢れてかえっているので今更ココで書く必要はないと思われます。
では私のブログでは何を書くかと言いますと新規場面を追加した長尺バージョンを観た上での私の考察や感想を(今までもそうやってきましたが…)書いていきたいと思います。
鑑賞前の予備知識記事でも書きましたが本作を鑑賞した際に今まで味わった事のない衝撃を受けてしまったのです
アニメにしても実写にしても日本で戦争を題材にした作品はどうしても左的な思想が強い反戦映画になってしまいます。
世界で唯一の被爆国でもあり戦争の理不尽さや醜さを十分に味わってきた経験が過去にあり現在は先進国として生まれ変わっている国だからでしょう。
引用元:この世界の片隅に: 虎猫の気まぐれシネマ日記
『はだしのゲン』などは原爆の被害をリアルに描写した事で戦争の恐ろしさを表現していました。『火垂るの墓』では戦後に貧困で飢え死にしていく兄妹の物語でした。
トラウマになってしまいそうな表現方法で戦争反対を訴えていく作品が多かった中で『この世界の片隅に』では…もちろん戦争の理不尽さや残酷な表現が全くなかったわけではないが全体的にのんびとした感じに思えた方が多かったのではないでしょうか。
おそらく戦時中はもっとピリピリしていて余裕のない暮らしをしているはずなのだが北条すずさんのフィルターにかかるとそんな時代であっても楽しいことがたくさんあったのでは…と思えてしまうのです。
引用元:すずさんと私たちは、何が同じなのか?
呉の上空で戦闘が行われているのを眺めながら絵の具の事を考えているくらいですから我々が想像している戦争という暗い時代の中でも すずさんの中では色鮮やかな世界だったのでしょう
しかしポジティブなすずさんでも晴美ちゃんが亡くなった以降では色彩豊かな世界だったのがいびつな色の世界へと変わってしまうのです。
この展開の落差によってショッキングな感情になってしまう事が本作の『反戦』という訴えだったのだと私は感じました。
直接的ではないが今までの日本の戦争映画にはなかった角度からの訴え方にそんな方法もあるのか…と感心さえしてしまいました。
海外とは違い日本では『戦争』という題材をどうしても重く捉えてしまう傾向があるのです。
私も子供の時は戦争映画が大の苦手で『はだしのゲン』がトラウマとなっていた時期もあったのです。戦争映画を無意識的に避けている人は多いのではないでしょうか…
引用元:プロフィール / X
私が本作で衝撃を受けたのは戦争という時代の中で強く逞しく生きた『北条すずさん』という女性をのんびりな感じで描きながらも戦争の理不尽さや残酷さをも訴えている『反戦映画』にしっかりとなっていて…それでも人は明日も明後日も生きていかなければいけないという勇気づけられるメッセージも込められていたところである…といったようにココでは『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を既に鑑賞しているという前提で記事を作成しております。ネタバレ注意となっておりますのでご了承ください

『泣くな!』と言われても…
引用元:言葉にならない凄まじい感動が襲ってくる。
私が尊敬してやまないオタキングこと岡田斗司夫氏が本作の映画では『泣くな』とアドバイスをしていました。映画鑑賞後に岡田氏の動画を観たので すでに号泣後だった事はまた別の話…
岡田氏が言うには人間は泣いてしまうと感性が閉じてしまい理性が働かなくなってしまうらしい。単純に本作を『泣ける映画』として認識してしまうそうなのだ。
本作をただ『泣ける映画』として捉えてしまうのは非常に勿体ない事であり、泣くのを最後まで我慢すれば最後にとんでもない衝撃的な感動が待っている…というのが岡田氏の見解となっている
岡田『この映画の点数??
百点に決まってるじゃないか!』
自己防衛
引用元:紅 三十郎さんはTwitterを使っています
『北条すずさん』旧姓『浦野すずさん』はのんびり性格の天然キャラで放っておけないタイプの魅力的な女性なのだが果たして本当にそうなのか…計算しているとまでは思わないがすずさんがのんびりとした性格になったのは兄の存在が大きいのかもしれません。
原作でもアニメでも兄はすずさんに対しすぐに暴力を振るっていました。すずさんは兄を苦手としていて決して良好な関係ではなかった事は兄の死を知らされた時に想いを語っています。
兄の暴力に対し何も分かっていないかのようにヘラヘラすることで自分を保っていたのでしょう。
他の作品ですが似たような人物がいます。るろうに剣心に登場する『瀬田宗次郎』も親戚からの虐待から身を保つために常に笑って暮らしていたのです。
引用元:【この世界の片隅に】すずと周作には子供ができない?
ついついすずさんの『あちゃ~顔』を見てしまうとホッコリきてしまうのだがすずさんが困難な事から自分を守るための防衛策だったのです
この自己防衛は戦争という暗い時代を生き抜いていく術としては十分に効果が発揮されていたのですが…
晴美の死、失った右手
引用元:映画『この世界の片隅に』すずが実家に帰ろうとした理由
さすがに晴美の死はすずさんの自己防衛策もキャパオーバーとなってしまい精神崩壊が始まってしまいました。更に自己表現ができる唯一の方法であった画を書くための右手までも失ってしまうのです。
晴美を死なせてしまった負い目、右手を失った事で家事もできない、子供を授かることもない…当時なら離縁となるのは不思議ではなく すずさん自身も北条家には居づらかったはずである。
すぐに離縁とならなかったのは『戦争中』という時代背景があったからだと思われます。
戦争が激化する中で国家総動員として一致団結を持って敵国に当たっている中で家庭の問題である離縁はタイミングが悪すぎるのである。
晴美の死、失った右手、離縁…とあまりにも大きすぎる問題ではあるが笑う事ができなくなった すずさんは『今は戦争中だ』という事を理由に何とか自分を保っていたのである。
『戦争』という名の絆創膏
引用元:この世界の片隅に 「生きる」ということを女性目線で描くアニメーション戦争映画
戦争によって理不尽な傷を心にも体にも受けたすずさん。しかし戦争中という事を理由に何とかギリギリと精神を保っている状態の中で大日本帝国は昭和20年8月15日に敗戦という形で終戦を決定するのです。
すずさんの涙は敗戦による悔しさではなく心に受けた深い傷を薄っぺらい『戦争中』という名の絆創膏を貼ることで何とか自分を保っていたにも関わらず、その絆創膏までも奪っていく非情さである。
もちろん私も号泣である。岡田氏は『泣くな』と言っているが…そんなのは無理な注文で無茶苦茶は言わないで欲しい。
それでも人は生きていく
引用元:「この世界の片隅に」の終盤ですずさんの腕にすがりつく戦災孤児の姿を再現したジオラマが登場
正直な気持ちすずさんが号泣しているシーンで自ら命を絶つのではないか…と心配したのですが次のシーンでは義理の母が隠し持っていた白米を取り出した時のセリフで…
『全部はいかん、
明日もあるし…明後日もある』
このような辛い出来事が次々と起こったとしても人は眠たくなるし、腹も減るんだ。明日はくるし…明後日もくる。それでも人は生きていかなければいけないのだと痛感させられた所で…二度目の号泣。
戦争によって失われたものは大きく計り知れないものでもある。しかし最後に戦争孤児の女の子を養子に迎えれたことがすずさんの救いになったことは書くまでもありません。
この女の子は晴美ちゃんでもあり白木リンさんでもあるのです。言うまでもなく三度目の号泣となります。
無理です岡田斗司夫さん…この映画を観て『泣くな!』は無理な注文なのです。

残り30分は怒涛の号泣映画でした。この映画は国民の義務ですよね

白木リンさん
引用元:引用元:この世界の(さらにいくつもの)片隅に【映画】
映画の中では親友のように描かれていた白木りんさん。周作が想っていた女性であり結婚を誓い合った仲でもあったのです。家族の反対があり結婚は叶わなかったのである…つまりは すずさんとは恋敵という関係でもあるのです。
『すず』『リン』と並べれば分かりやすいが二人は一枚のコインの表と裏のように対比されているキャラでもあり、姉妹の様に似ているキャラでもあるのです。
親からの愛情をうけて育ったすずさんに対し親から売られて孤児として生きてきたリンさん。貧しくも逞しく生きているすずさんに対し孤独ではあるが遊郭で華麗に生きているリンさん。周作に選ばれたすずさんに対し周作に選ばれなかったリンさん。
しかし二人ともにおっとりとした性格で顔もどことなく似ている。周作の好みのタイプだったのでしょう
映画の中では親友のように仲睦まじくしているシーンが多いが実はバチバチやりあっていて周作を巡る三角関係となっていたのです
代用品
引用元:『この世界の片隅に』 かなしみのうさぎ | 映★画太郎の MOVIE CRArいんDLE
子供の頃に一度だけ出会っていた事を理由に結婚を申し入れをした周作。昔から想いを馳せていたように思われたのですが実はリンとの結婚を諦める代わりに『浦野すずとなら結婚しても良い』と両親に無理難題を突き付けたらホントに見つけてきた…という言葉は悪いがリンの代替えでの結婚となったわけです。
結婚式の時の浮かない表情はこういう事が理由だったのでしょう。
そういう事も知らずにリンさんと仲良くなったすずさんですが、二人の関係性を知った時にすずさんが取った行動は…
引用元『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』のん、声優抜てきの秘話とは?
周作がリンさんのために用意していた茶碗をリンさんに渡しに行くという行動なのです。周作さんのことはもう諦めて下さいというすずさんの意思表示だったのでしょう
結果としてリンさんはお客さんに付いていたため出会えずにテルちゃんに渡す結果となったのです。ちなみに何故かすずさんは決戦をするかのように竹槍を持っていました。
引用元:この世界の(さらにいくつもの)片隅に|【映画感想】とまどいと偏見
自分は周作の想い人だと思っていたすずさん。しかし実はリンさんの代用品だった事が分かり自分の居場所を失わないために取った行動であったが…リンさんは更に上手で
綺麗な死体から…
引用元:引用元:『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、追加シーンによって何が変わったの
『キレイな死体から
はよぉ 片づけてくれさるそうなん』
怖くないですか…『周作さんの事は忘れて下さい』という意味で茶碗を渡したリンさんの返しが『早く死んでくれ』という意味の口紅返し
私の勝手な妄想なのかもしれませんが女性の戦いは非常に怖いものですね
記憶
引用元:この世界の(さらにいくつもの)片隅に【映画】
北条周作という男を同時に愛してしまったすずさんとリンさん。お互いに嫉妬もあったがやはり二人は親友同士で心が通じていたのでしょう。
『死んだら、心の底の秘密も
何も消えてなかったことになる…』
周作との甘い思い出は自分だけの記憶だけに留めておけば私が死ねば全て消えて無くなってしまう…という意味だと思われる。しかしすずさんが茶碗を渡したことで自分だけの秘密が秘密でなくなってしまったのです。
誰の記憶の中にも存在せずに人知れず死んでいくより、すずさんの記憶の中にしっかりと存在していく…コレはコレで贅沢なのかもしれません。
おそらくリンさんは呉の空襲で亡くなったと思われます。もともと孤児で身寄りがなく遊郭で働いていただけに死んでしまえば誰の記憶にも残らない女性になってしまいます。
なかった事にされるのは非常に寂しいものであります。しかし少なくともすずさんの記憶にはしっかりとリンさんは刻まれたはずであります。この世界の片隅にある…もう一つの片隅が白木リンという女性の世界だったのでしょう

リンさんのエピソードを追加した事で色々と不透明だった部分が浮き彫りになっていました。リンさんとすずさんに想われている周作に嫉妬してしまいますね

みぎてのうた
引用元:『この世界の片隅に』と、「右手」が持つ魔法の力
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の主題歌だと思っていったコトリンゴさんが歌う『悲しくて やりきれない』透明感のある歌声でどこか寂しげな歌詞は本作にピッタリといった楽曲なのだが実はOP曲という扱いであり主題歌ではなかったのです。
では主題歌は…というと劇中に流れていた『みぎてのうた』が主題歌なのです。
引用元:『この世界の片隅に』と、「右手」が持つ魔法の力
原作を読まれている方ならすぐにお気付きになるでしょうが『みぎてのうた』は原作の中で失ってしまったすずさんの右手が語りかけてくるメッセージで歌詞が作られているのです。
『どこにでも宿る愛』
『変わりゆくこの世界の
あちこちに宿る切れきれの愛』
『ほら、ご覧
いま其れも貴方の一部になる』
引用元:「この世界の片隅に」の終盤ですずさんの腕にすがりつく戦災孤児の姿を再現したジオラマが登場
戦争によって右手を失ったすずさん、戦争によって両親を失ったすずさん、戦争によって晴美ちゃんを失ったすずさん…戦争は色々なもの切り裂いて多くのものを奪っていったのかもしれません。
しかし全てではないのです。切り裂かれながらもそこには小さいながらの愛が宿っているのです。この切り裂かれた愛の象徴こそが戦争孤児のヨーコだったのです。
ヨーコも原爆によって母親を失っていました。しかしヨーコは北条家に迎え入れられ北条家の養子として幸せに暮らしていたことはエンドロールで描かれていました。
『ほら、ご覧
いま其れも貴方の一部になる』
戦争によって荒廃してしまった世界の中でも人は決して愛を失う事はなく、切れ切れになってしまっても繋ぎ合わせる事ができる強さを人間は持っている。ヨーコは紛れもなくすずさんが戦争で失った右手であり…晴美ちゃんであり…居場所だったのでしょう

原作では右手の語りだったセリフ『を歌にしようとするセンスはヤバいですよね

たんぽぽ
引用元:■【映画評】 『この世界の片隅に』。タンポポが、野にささやかに咲くように。
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は人間の醜い本質とも呼べる戦争(争い)を題材にしているのとは対称的に自然物がたくさん描かれていました。
白鷺やカブトムシ、トンボに蟻…そして『たんぽぽ』と冬が明けたんだなぁ、春が訪れたんだなぁ…と季節が巡ってくることで時間の経過を表す役目も持っていたのだと思われます。
戦争が題材で広島が舞台となれば日本人なら必然的に原爆を連想してしまいます。年月の表示と共に季節感を表している自然物が私たちに昭和20年8月6日が近づいてきていることを知らせてくるのです。
『戦争』と『自然』対称的であるこの二つのギャップを混在させたことも本作を深く見入ってしまう要因になっていたのだと思いました。
『タンポポ』=すずさん
引用元:尾身美詞インタビュー 『この世界の片隅に』の径子につながった“たまたま”の積み重ね
本作に於いて『タンポポ』は重要なキーアイテムとなっていました。遠い地から風に乗って運ばれてきたタンポポの種は知らない土地に根を張り花を咲かせるのです。
広島から見知らぬ街の呉に嫁いできたすずさん。呉の地にしっかりと根付いて美しい花を咲かせようとしている姿はまさに『タンポポ』であります。
『タンポポ』であるすずさんが最後に周作さんに言った言葉が…
周作さん、ありがとう
この世界の片隅に、
うちを見つけてくれて。

この映画は確実に私の水分を5%減らしました

総括

引用元:この世界の(さらにいくつもの)片隅に|なぜ犬は尻尾を振るのか。
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は確実に私が感動した映画TOP5に入る作品であり見返すたびに涙腺が崩壊する作品でもあります。
まだまだ語ろうと思えば、後いくつかは語れるのだが…気になった個所が一つあるのです。
本作はエンディングロールが2つありまして、通常のスタッフロールとクラウドファンディングで支援してくれた方のためのエンドロール
通常のスタッフロールは北条家の未来が描かれていたのに対してクラウドファンディング用のエンドロールでは白木リンさんの過去が描かれていたのです。
クラウドファンディング用の方になるのだが最後に すずさんの失ってしまった右手だけが出てきて手を振っているのである。
これはどういう意味があるのでしょうか…もしかして『この世界の片隅に』は北条すずさんが語っていた物語ではなく…失ってしまったすずさんの右手が語り部となって私たちに伝えていたということだったのでしょうか…っていった所でオツカレっす!